目次
01-ほとけの道のお誓い(十戒)-諸悪莫作- 自然に育まれ
02-見釈迦牟尼仏
03-いのちの伝承(一)
04-いのちの伝承(二)
05-いのちの伝承(三)死をみつめる
06-偶一行修一行

07-日日の行持は報謝の正道なり(修証義)

08-脚下照願
09-仏心
10-観無常心(かんむじょうしん)
11-浄信一現
12-念念相続
13-此一日の身命は尊ぶべき身命なり
14-銀椀に雪を盛り明月に鷺を藏す
15-絆 つながって生きる
ほとけの道のお誓い(十戒)-諸悪莫作-
まず第一は
不 殺 生 戒 ふせっしょうかい
 人や物のいのちを生かさんと誓います
第二は
不 偸 盗 戒 ふちゅうとうかい
 むさぼりとらずに 他に喜びを与えんと 誓います
第三は
不 貧 婬 戒 ふとんいんかい
 欲するままの行いを慎み自然の摂理を大事に生きんと誓います
第四は
不 妄 語 戒 ふもうごかい
 嘘をつかず人の心を潤すような言葉を心がけんと誓います
第五は
不 酤 酒 戒 ふ こしゅかい
 元の清らかな心の生地をたもつよう誓います
第六は
不 説 過 戒 せつかかい
 愛語につとめ 人を引きたてるよう誓います
第七は
不 自 讃 毀 陀 戒 ふじさんきたかい
 おおらかな心で 生きようとお誓いします
祖師方が大切にされた「仏心」が忘れ去られようとしており、依然混迷の様相が増しております。

「見釈迦牟尼仏」―――

仏さまの姿をみつめ、仏さまの言葉に耳をかたむけ、共に喜びたいと示され、仏さまとの出会いこそ生きる礎としていこうと、道元禅師は示されました。
正月の”正”は、”一””止”まって今日までの生き方を見つめ直し身の処し方をじっくり考えてみませんか!という歳の始めの月。できることから始めてみましょう。

仏前で静かな時間(坐禅)を 行じてみる
手を合わせ口に唱えて「南無釈迦牟尼仏」(三遍)を 行じてみる
心をこめて合掌、礼拝して般若心経等 読経を 行じてみる


是非、心を発し勇気を出して始めてみましょう。苦悩と共にあるいのちの中で「見釈迦牟尼仏」の心を育てて行くことこそ信仰の道を歩む喜びです。
 
いのちの伝承(一)
私たちは今このいのちを頂くまでに五十数億年といういのちの背景があるのです。

(平沢興元京大教授)

生まれかわり、死にかわりして数えきれない祖先のいのちが引き継がれ、今、自分のいのちを生きています。

生老病死のこのいのち、どの様に生き、老いを見つめ、病と向き合い、死を迎えるか。この死こそ人としての卒業式。何をもって次の世代にバトンタッチすればいいのでしょう。(これが大難問)

まず一つには生きる力。
私の人生を生きぬくための生命力。
人が人らしく生きぬく力。


この力を日常の生活の中に生かし共に学びあい、育てあうことが必要となってくるでしょう。この一つ一つを次世代に残したい、いのちの宝ものです。

弁道話の中に
「仏道をならふといふは 自己をならふなり」
と示されておられます。詳しくは次回に続きます。

 

いのちの伝承(二)
自分が自分らしく生きるには

今、頂いているこのいのちを見つめることが第一歩。これが生きる力となって輝いて、いのちの真実に出逢うことになります。

では いのち とは 何?

第一
この「いのち」は、天地いっぱいの一つ一つのいのちと、
かかわりを持って生きております。

第二
この「いのち」は、だれとも違うただ一つのもの。
オンリーワン!みんなちがってみんないい!もの。

第三
この「いのち」は、必ず最後に「死」がまっています。
意識してもしなくても、いつどこで死ぬるいのちか わからない。

第四
この「いのち」は、常に変化しています。川の流れのごとく。
今日の自分は、昨日の自分ではなく明日の自分でもない。



このいのち(死)について

考えていくと重苦しい気持ちになるが、真剣に考えていけば、今の「いのち」を大切に、今日という一日が輝いてきます。
 
 
いのちの伝承(三)死をみつめる

修証義に「生死は仏の御いのちにて…」と示されております。
いのちを頂いて(生まれて)、年を重ね、病に出会い、死する人生。
大自然からの贈りもの。
「死する」ことは------人生の卒業式とも言えましょう。

「いろいろお世話になりました。
    あの人、この人、ありがとう。
        両手合わせてまいります。 」

こんな姿で、さわやかにいきたいものですが、なかなか難しそうです。
映画評論家だった故淀川長治氏は、『生死半半』(幻冬社)で、
こんな話を書いております。

死ぬことばかり考えていると暗い気持ちになるんじゃないかと思う人がいる
かもしれません。でもそれは全く反対です。死について真剣に考える程
「生」を大事にしたくなるのです。死を本気で思えた時、生きて暮らしている
今日という一日がどれだけ輝いて見えることか!

私も、そう思える年齢になって参りました。

真澄 拝
内外共に混迷の様相であります。
私共の曹洞宗においては、どんな時代になろうとも、どんな生活の中にあっても大切に保たれなければならないことを、祖師方が示されております。
高祖 道元禅師は---『身心自然に脱落す』
太祖 瑩山禅師は---『心地を開明し本分に安住せしむ』
毎朝のひととき 調身、調息、調心の 心を静かに保つ数分を持ちたいものです。
そして、ゆっくりと 口に唱えて言わく
なむ しゃか むにぶつ
『南無釋迦牟尼佛』と三遍お唱えします。
この発心の一歩こそ、仏さまの教えに値う光明となり、心安らかな生活の基盤となることでしょう。
一行に遇って一行を修す 
人生に定年はありません。
老後も、余生もないのです。
死を迎えるその一瞬まで、人生の現役です。
人生の現役とは自らの生を悔いなく生きることです。
そこには「老い」や「死」への恐れではなく
「尊く美しい老い」と「安らかな最後」があるばかりです。
日日の行持は報謝の正道なり(修証義) 
仏さまの教えの中に、私達の「いのち」は尊ぶべき身命なりと示されております。かけがえのない「いのち」とりかえることのできない「いのち」と言う事です。
平沢興先生(京都大学総長)は、この人間の「いのち」について次のようにみつめておられます。
○○○人間は、この生命をいただくまでに五十数億年という進化の背景がある。
○○○三十数万億の細胞の共同体としての人間は、肉体的にも精神的にも、
○○○まさに全宇宙の至高の芸術品である。
私達の「いのち」は、五十数臆年の「いのち」のバトンタッチがあって、ようやく、今、自分の番を生きています。この「いのち」あなたはどう生きて行きますか。
朝目覚めてありがたい、お仏壇にわがいのちありがとう、食事にもありがとう、いただきます、子育ても、仕事も、この時こそありがとうの如来さまです。
日日の行持は報謝の正道なり
朝のお仏壇で「おいのちありがとう」とお唱えいたしましょう。
脚下照顧ーはきものをそろえるー 
ご本山修行中、先輩のお坊さんから
「まず、はきものを整えよ。」と教えられます。
○○はきものの乱れは、心の乱れ。
○○はきものを乱しておくと心も乱れてまいります。
○○はくときに、はきものが乱れていると心が乱れてしまいます。
○○「はきものを整える」ことを実行するには
○○(ととのえよう)とする勇気が必要ですよ。
というのです。 脚下照顧
 
これを一年間、しっかりと実行できれば、自然に心がととのってきます。
はきものを整えることは、
自分を大切にすること、自分を愛すること、
自分をしっかりと見つめることになります。
誰かが乱しておいたらだまってそろえておいてあげよう。
そうすればきっと世界中の人の心もそろうでしょう。
 
仏 心--
道元禅師は、
仏心を発(おこ)すというは
己れ未だ渡らざる前に一切衆生を渡さんと発願し営むなり
と示されております。
 
仏心とは、自分のことはさておき、人の為に尽くそうという心を発すこと。
この心は、仏さまの心です。
自分の我を中心とするから苦しみます。
仏心にめざめれば、苦労も生き甲斐に変わってきます。
自分が救われる事になります。

 

観無常心(かんむじょうしん)    
無常を感じることは真実に覚め、
無常に出逢うことは真の自分に出逢う
 
生まれたものは死に
会ったものは別れ  
持ったものは失い
作ったものはこわれます
時は
矢のように去っていき
すべてが無常です
この世において
無常ならざるものは
あるでしょうか
正しい宗教
自分の宗教を信じるあまり他宗をそしり、
果ては憎しみ合うほどおろかな事はない。
正しい宗教は、いつの時代でも人々を明るく照らし
平和な身と心のあり方を導くものである。
 
世を照らし 人をば照らし
永却に 輝きわたる法の灯
梅花流ご詠歌「法灯」
親鸞上人は、
「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」といわれました。
イエス・キリストは
「心貧しき者、天国はその人のものなり。悲しむ者、その人は慰められん。」
道元禅師は、
「坐禅は安楽の法門なり」
「仏道をならふと言うは自己を習うなり」と言われております。
 
普遍の宗教には、誰でもが等しく普く救われ
安らかに生きるという道理が示されています。
 
 
浄信一現
亥の新年
おめでとうございます。皆様のご安心、ご清祥をご祈念申し上げます。
私も還暦となり、歴の元に還り再スタートの年となり
ました。お檀家の皆様に対しまして御恩酬い難しの感が
あり、力不足で申し訳なく思っております。
これから再スタートの誓願で精進いたす所存です。
今後共ご法助の程お願い申し上げます。

道元禅師のお言葉の中に
「浄信一現するとき
自他同じく転ぜらるるなり」とあり、
善き心で浄らかな心で真心あふれる生活をしている
と、自然に自と他が同時によき方向に導かれ、すべての
人達が救われるーーーという教えと受けとめております。

朝のひとときお仏壇に温かい心のこもったお茶をお供えし、
お線香を真ん中に素直に立てた時、おのれの心がまっすぐになり
善き人となる”一瞬”です。?
できれば手を合わせ、静かな時間を持ちましょう。
一分でも二分でも坐禅をしましょう。
合掌し、大きく息を吸い、ゆっくりと
「南無釋迦牟尼佛」と三度お唱えします。
できればご両親様(ご祖父母さま)のご戒名もお唱えしてみましょう。
自然と仏様と同じ心になり、善き人となり豊かな安らかな人生となりましょう。
どうぞ大切な人生を、大切なひとときを。

 
念念相続

秩父の霊場には とにかく長い階段があります。
長い階段の前に立つと、少々うろたえてしまいます。
そこで 一段ごとに一歩一歩 般若心経を唱えながら
登ることにしました。すると どうでしょう、ひざに不
安を感じていたkさんも 思いのほか楽に登りきることが
できました。無心に、ひたすらに。

経典の中に「念念相続」が示されています。

「常に仏様を 念じて念じて生きる」
「念」は「今の心」と書き
この瞬間、今の一時(ひととき)に心をこめて大切に生きる。

過去にとらわれず 未来を求めすぎず
この一呼吸この一瞬に 心をこめて念じ続ける
祈りの相続であります。

感謝と供養と祈りの相続が 善き方向に進んでいこうと
する勇気のあらわれとなります。
さあ、お線香を まっすぐに立てましょう。
はきものを きちんと整えましょう。

 
此一日の身命は尊ぶべき身命なり

北海道知床半島のお寺に鈴木章子さんと言う方がおられます。
章子さんは乳ガンを発症し、それが肺にも転移した状況にあります。その時の文章に

癌は私のみなおしの人生の
ヨーイドンのガンでした
私 今 出発します と記しています。

ガンのお陰で、今まで気づかなかった命の重さを感じ、
一日が、かけがえのない一日となったと示されています。
ガン発症は終着点ではなく、スタートラインだーーーと。
人生は やりなおしはできないけれど見直すことができ
るーーーとも。すばらしい方ですね。無常(老病死)を
みつめ、この一日の身命、一日の生き方を真の生き方に
変えていこうという心意気を感じます。
『修証義』に 此一日の身命は尊ぶべき身命なりーーーと。
今年は この尊い一日、尊い身命に「手を合わせる」
生活をしてみませんか。

 
銀椀に雪を盛り明月に鷺を藏す

毎朝六時三十分より、本堂にて、坐禅と朝のおつとめに親しんでおります。最近このひと時に、
ご一緒される方が、一人二人と増えてきて喜んでおります。坐禅は静かに心を澄まし、身を調え、
息をゆっくり吐く意識で坐ります。鳥の声、水(雨)音、風のそよぎ・・・・・・自分の心と自然界とは
各々別々でありますが、すうーっと溶けあって行くのが実感され、自然とつながり、生かされている
自分が感じられる一時です。「キレる」最近のメディアの報道で頻繁に聞かれる言葉です。
辞典の中には、
(1)ひと続きのものが力を加えられて、離れ離れになる
(2)結びつきがなくなる
(3) 続いていたものが続かなくなる
とされています。
 私達は、自然界の恵みによって、いのちを頂き、その恵みによって生き、
生かされております。「キレる」とはその恵みとのつながり(ご縁)を切ってしまうことになります。
私たちが生きて行く場合、キレてはいけないものがあります。
そのキレてはいけないものには四つあります。
・大自然、四季おりおりのつながり
・人と人との出逢いのつながり
・ご先祖・ご両親さまとのつながり
・自分自身のいのちとのつながり
 この四つのつながりは生きる原点
になり、心の灯となり、人間力となってまいります。
 このつながりが感じられなくなると、生きる力が失われ、自他のいのちを切り捨ててしまう
ことになるようです。
 「いのちは一つ一つそれぞれ尊いものであり、みんなつながり、結ばれている」と
お釈迦さまが説かれております。
当山では、この「いのちのつながり」を身と心で味わって頂くために、夏休み期間中、
「てらスクール」”子ども禅のつどい”として開いております。
 子供たちはまさしく仏の子、五分も坐れば身心がまっすぐになって生きる仏さまになってまいります。
「坐禅をして、初めて”自然の音”を聞いた気がする」ーーーなんと小学五年生の男児の感想です。
 一つ、ひとつのいのちのつながりをもう一度、共に確かめてみましょう。

 
絆 つながって生きる

毎朝6時30分より、坐禅と朝のおつとめに親しんでおります。
最近はこのひと時にご一緒される方が一人、二人と増えてきて喜んでおります。
静かに心を調え、身を正し、息をゆったりとして坐す。
…鳥の声、水(雨)音、風のそよぎ…自分の心と自然界とは別々でありますが、
溶けあっていくのが実感できます。
私たちは、自然界の恵みによりこのいのちを頂きました。
“キレる”とはその恵みとのつながり(縁)を切ることです。
人が生きる時“キレ”てはいけないもの、四つあります。
・大自然とのつながり
・人と人とのつながり
・ご先祖、ご両親とのつながり
・自分自身とのつながり

それぞれ人皆違っておりますが大自然の中に抱えられているいのちであります。

   中国の禅僧・洞山良价禅師(807〜869)の法語「宝鏡三昧」の句に
   [銀わんに雪を盛り明月に鷺を蔵す]とある。
    銀の器に雪を盛ると違いが見えず
    月明かりが白鷺を包むとこれも渾然一体となる
    その様に大自然(この世)は様々なものが混じり合い
    それぞれのところであるべきようを発揮している
   いのちは一つ一つそれぞれみんな結ばれてつながって生きているー
   と示されております。

朝の数分間、お仏壇の前でこのいのちのつながりを
もう一度確かめてみたいものです。  山主拝

 
 
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